中曽根康弘 戦争体験

Copyright © SHINCHOSHA All Rights Reserved.すべての画像・データについて無断転用・無断転載を禁じます。, 「隊長、すまねえ──」凄惨な南洋の海戦で部下を失った戦争体験。中曽根康弘・元首相の政治家としての志を支えた愛国心(他の写真を見る), 中曽根康弘・元首相が亡くなった。101歳。かつて取材で、「何歳まで頑張りますか」との質問に、「暮れてなお命の限り蝉時雨」と、心境を得意の俳句に託し述べていた。連続当選20回。議員在職56年。引退後も積極的に発言を続けていた。政治家としての志の原点は、遠く南の島での戦争体験に遡るという。, 1947年4月、まだ29歳の青年だった中曽根氏は、「占領中は喪中だ」との考えから黒ネクタイで国会に初登院したという。連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーに英文の「建白書」を提出し、政策を痛烈に批判。当時から自主憲法制定を訴え、世間の耳目を引く活発さから「青年将校」「若武者」と呼ばれた。, 中曽根氏が内務省から海軍に志願し、戦地に赴いた経歴はよく知られているが、ではそのときに、彼が見たものはなんだったのであろうか。1941年11月、「台東丸」で広島の呉から出航、フィリピンのミンダナオ島ダバオに向かっている。, 中曽根氏の立場は「第2設営隊の主計長」だった。工員2千人を束ね、「敵の飛行場を奪取し、すぐに零戦を飛べるようにする」のが、その使命。パネルや散水車、地雷の撤去に必要な道具、零戦用の爆弾とガソリンを積み込み、14隻(せき)の船団で出航した。工員は民間からの徴用で、〈かなりの刑余者〉がいたという。中曽根氏は前科8犯、親分肌の「古田」を自室に呼び、班長に指名した(以下、〈〉内引用は著書『自省録―歴史法廷の被告として―』より)。, 〈「古田、おまえ、ずいぶん天皇陛下に迷惑かけたな。いよいよこれから戦争だ。おれも海軍のことはよく知らないが、おれの子分にならんか。おれも上州は国定忠治(くにさだちゅうじ)の血を受けた人間だ。どうだ」, そう訊いたら、「へい、なりやす」という。「それじゃあ、おれの杯を受けるか」「いただきやす」となって、従兵に酒を持ってこさせて茶碗(ちゃわん)に入れて出しました〉, こうして「義兄弟」を得た中曽根氏だったが、ボルネオ島バリクパパンへの移動中に、僚船4隻が撃沈される。さらにバリクパパンへの上陸間際、オランダとイギリスの巡洋艦、駆逐艦が奇襲、魚雷と砲弾の嵐の中でさらに4隻を失った。中曽根氏が乗船していた船は、この攻撃で炎に包まれた。, 〈あたりはもう阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄図でした。砲煙弾雨の中、梯子段(はしごだん)を降りて懐中電灯で部屋を見ると、みんな手や足がふっ飛んでいる。血だるまになった人間が、「助けてくれ」とうめいています〉, このとき、中曽根氏は盃を交わした古田班長の臨終を見届けている。古田班長は被弾し、「隊長、すまねえ」とだけようやく口にして、息を引き取ったという。海岸で荼毘(だび)に付した際、中曽根氏はこう詠(よ)んだ。, 〈美辞麗句でなく、彼ら(戦友)の愛国心は混じり気のないほんものと、身をもって感じました。「私の体の中には国家がある」と書いたことがありますが、こうした戦争中の実体験があったからなのです。この庶民の愛国心がその後私に政治家の道を歩ませたのです〉, あまり知られていないのが、中曽根氏が防衛庁長官だった1970年、日本の核武装の可能性について、防衛庁内で研究させていた史実だ。中曽根氏はその15年前、衆参両院の原子力合同委員会で委員長を務め、原子力基本法の成立に関わっていた。さらには59年の初入閣では科学技術庁長官を務めている。いわば日本の原子力政策の道筋をつけた人物なのだが、「両刃の剣」の扱いには慎重だった。, 〈当時、伊藤博文の孫が防衛庁の技官としてこの問題について一番勉強しているというので、彼をチーフにして専門家を集め、現実の必要を離れた試論として核武装をするとすれば、どれぐらいのお金がかかるか、どのぐらいの時間でできるかといった、日本の能力試算の仮定問題を中心に内輪で研究させたのです〉, 中曽根氏は、日本の「核武装」には一貫して反対の立場をとっていた。国際関係の緊張や、核不拡散条約体制の崩壊をその理由にしていたが、一方でこうした裏付けがあった。, 内部研究の結論は〈2千億円、5年以内で出来る〉というものだったと、中曽根氏は証言している。しかし、「ある条件が満たされれば」、という前置きがあった。, 〈ただし、日本には核実験場がありませんでした。フランスにしても国内では実験が出来ないので、国外で実験をやったように、核実験場がないのは大きな問題なのです。もっとも、最近はコンピュータの発達で小型核は実験なしで出来ると言われています〉, こうした歴史の生き証人としての発言・著作は多い。先の『自省録』の編集担当者が明かす。, 「自分は歴史法廷に立つ被告なのだと、中曽根さんは口にしていましたね。政治家はその評価をめぐって、歴史に処罰される生き物だと」, 昭和20年秋、廃墟となった東京の焼け野原を前にして、〈この国を建て直すことができるのだろうか。国民は、もう一度立ち上がれるのだろうか〉と考えたという中曽根氏。「この国」は来年、戦後75年を迎える。, 【田中角栄の殺し文句】相手を待たせた時にどう言うか――プライドをくすぐる「殺し文句」とは, 新宿で発見された100体の「人骨」は何を語るのか? 「731部隊」が戦犯として裁かれなかったワケ, 薄毛は生活習慣では改善できない? 「AGA治療」を専門クリニックが徹底解説! 費用や期間は?PR, デイリー新潮とは? | 広告掲載について | お問い合わせ | 著作権・リンクについてご購入について | 免責事項 | プライバシーポリシー | 運営:株式会社新潮社, Copyright © SHINCHOSHA All Rights Reserved. 官僚の面従腹背をどう防ぐか エリートの心を一瞬で掴んだ角栄の「 … 11月29日朝、中曽根康弘元首相が亡くなりました。101歳でした。中曽根氏は1918年、群馬県生まれ。東大卒業後、旧内務省に入り、海軍主計少佐を経て、1947年に衆院に初当選。防衛大臣、通産大臣、自民党幹事長を歴任後、1982年に第71代内閣総理大臣に就任しました。 中曽根康弘が語った戦争体験 「核武装を本気で検討」したことも.

先月11月29日、元首相の中曽根康弘が死去した。101歳であった。 中曽根の死後、作家やジャーナリスト、政治記者、学者、評論家など、多くの人が中曽根の死を弔い、各方面から追悼の記事や評伝が発表された。中曽根については毀誉褒貶あり、中曽根の追悼記事や評伝の内容も様々であった。それも含めて間違いなく大人物であったのだと思わされる。巨星墜つ─たしかにこの言葉がふさわしかろう。, 「ロン」「ヤス」と呼び合った米大統領のレーガン(左)と:J-castニュース2019.11.29, しかし、どのような追悼記事も評伝も自由だが、政治家の死にはおためごかしの物言いやお世辞は無用である。まして事実に基づかない記事や、政治的成果や手腕、方針を曲解したり、当てずっぽうの評伝は許されない。 事実として、中曽根を何か良質な保守政治家かのようにいい、戦後保守のレディティマシーの思想の持ち主であったかのような評伝が発表されている。しかし、中曽根は本当にそのような政治家であっただろうか。その評者は服部龍二という日本政治史研究の泰斗で中曽根政権研究でも著名な人物の著書を参考文献にしているようだが、服部の分析をつまみ食いしながら、都合よく服部の分析を離れ、服部の分析タームにはない思いつきのような自説の開陳に終始している。 ことさらに故人を非難する必要はないが、贔屓の引き倒しはむしろ故人を冒涜する行為だ。冷徹な批判、峻厳な政治的評価こそ、政治家の死に対するせめてもの弔いではないだろうか。 左右両翼から「死」を宣告されていた中曽根は、しかし101歳まで生き、大往生といわれるようなかたちで天寿を全うした。その人生には、一定の<真>を見る必要があるのかもしれない。無論、筆者に中曽根の評伝を記すなど手に負えない作業ながら、憲法や防衛、外交など中曽根の政治方針の変遷を振り返り、中曽根がけして戦後保守の代表格たる人物ではなく、「風見鶏」として戦後保守政界を、そして戦後保守思想を右往左往していたといういささか皮肉な評価を中曽根に贈ることにより、その一生に敬意を表し、またその死を追悼したい。, 中曽根といえば憲法改正が悲願であったといわれている。実際に中曽根は、昭和31年の自主憲法期成同盟発足にあたり、「嗚呼戦いに打ち破れ 敵の軍隊進駐す 平和民主の名の下に 占領憲法強制し 祖国の解体計りたり 時は終戦六ヵ月」なる歌詞を一番とする「憲法改正の歌」を作詞するなど、その情熱は並々ならぬものがある。また「憲法改正の歌」の五番には「マック憲法守れるは マ元帥の下僕なり」とまで謡われ、敗戦と占領に端を発する中曽根の怨念のような憲法改正の強い意志を感じる。 しかし、中曽根の憲法改正論、あるいは憲法改正のための政治的行動は、けして一貫したものではなかった。 例えば中曽根は、昭和24年の衆議院本会議において、当時首相を務めていた吉田茂を批判する演説のなかで、平和主義・戦争放棄を尊重するなど、平和憲法擁護の考えを示している。中曽根はいう、, と。 しかし、朝鮮戦争勃発後、中曽根は再軍備を主張し始めた。当然、それは戦後憲法との対決につながってくる。また、鳩山一郎政権時代は自民党副幹事長としていわゆる「押しつけ憲法論」をもって憲法調査会で改憲を訴えるなどした。 けれども中曽根は首相に就任すると、「現内閣で改憲を政治日程に乗せる考えはない」と述べ、現実主義的な対応をとっている。また中曽根は、憲法の基本的人権の尊重や平和主義を評価している。首相退任後、やはり中曽根は憲法改正をある種のライフワークとしているが、平成9年の憲法施行50年にあたり、元首相の宮澤喜一と憲法改正について対談し、, と論じた。改憲に否定的な宮澤を相手に10年かけて改憲の道筋をつければいいといった中曽根の発言は、楽観主義で「未来は考えない」という中曽根らしいのかもしれないが、どこまで改憲に本気だったのかの疑いも浮かぶ。 憲法改正という中曽根の悲願の真意は奈辺にあったのだろうか。, 朝鮮戦争勃発に伴う再軍備論に明らかなように、吉田政権時代の中曽根は自主防衛路線を主張している。中曽根は、吉田の旧安保条約締結に舌鋒鋭く反対し、「日本自衛軍創設」「日本自衛軍の増強」や日米安保を「対等の同盟」とすることなどを訴え、それによるところの「真の独立」や米軍の撤退を求めた。例えば昭和25年10月、芦田均の応援演説で中曽根は、, と訴えている。 こうして中曽根は吉田以来の日米安保・軽武装路線を批判し、鳩山政権の自主防衛路線を担っていく(ただし、鳩山政権の防衛政策は、実際には吉田路線を引き継いでいる)。 中曽根は如上の自主防衛路線を昭和40年頃まで主張していくが、佐藤栄作が首相に就任したあたりから、中曽根の主張は変遷をはじめる。それというのも、中曽根は佐藤の対立候補であった藤山愛一郎を支持していたが、佐藤が中曽根に協力を要請したため、中曽根は政治戦略の観点から佐藤政権の運輸相や防衛庁長官に就任するなど、自民党内での中曽根を取り巻く政治情勢がかわり、中曽根としても佐藤はじめ党内主流派の防衛路線に気を遣わざるを得なくなっていったためである。 すなわち中曽根は昭和45年、防衛庁長官として渡米し、ニクソン政権の外交・安保を担当する主要閣僚などと会談し、意見交換を行っているが、そこで中曽根は日米安保は日米の「結合と友好の象徴」とし、「そのまま維持されるべきだ」としている。 例えば中曽根はレアード国防長官との会談において、, とまで述べ、さらには米国の核の傘の必要性にも理解を示しているのである。 もちろん中曽根は、通常兵器による自主防衛の必要性を説くことをやめたわけではない。しかし、中曽根は、その自主防衛は日米安保を否定するものではないとも説明している。中曽根構想といった自主防衛の構想もあったが、それは実現することはなく、結局は日米の役割分担という側面が大きいカッコつきの「自主防衛」が展開されていくことになる。, 護衛艦「しらね」に乗船し、海自観閲式に臨む中曽根:時事ドットコムニュース2019.11.30, 忘れてはならないのは、防衛庁長官時代、中曽根は沖縄の施政権返還に関連する自衛隊の沖縄配備を進めたことである。当時の琉球政府の行政主席であった屋良朝苗は、沖縄戦の記憶という観点とともに、米軍の肩代わりとなるような自衛隊配備は必要ないとして自衛隊沖縄配備に反対した。中曽根は自主防衛という観点で自衛隊の沖縄配備を進め、実際に沖縄に配備された自衛隊は沖縄の局地防衛を担うわけだが、結局は中曽根自身が日米の役割分担という防衛方針に行き着くなかで、現在では沖縄の自衛隊はまさしく屋良の危惧通り、米軍の肩代わりとして宮古・八重山地域でミサイル部隊を展開しようとしている。, 米国の核の傘の話が出たので、中曽根の原子力政策と核武装の問題にも触れたい。 中曽根は終戦の年の8月6日、高松から広島への原爆投下による大きな白雲(いわゆるキノコ雲か)を見たという。中曽根は地質学者の岳父からウラニウムの日本埋蔵の話や原爆開発の話を聞いており、若い頃から原子力に強い関心を持っていた。そのため広島原爆投下も白雲を見た瞬間、「これが原子爆弾か」と理解したそうだ。そんな中曽根は昭和34年、岸信介内閣の科学技術庁長官に就任し、宇宙開発とともに原子力研究や原子力発電など原子力の平和利用を推し進めることになる。 中曽根にとって原子力は、発電や原子力を動力源とする船舶の開発など、エネルギーの確保という意味合いが強かったようだ。そしてエネルギーを確保し、また最先端の技術で日本が先進的な立場を確保することにより、日本の国際的な地位を上昇させたいという考えがあった。 もちろん中曽根には、原子力の軍事利用という考えがないではなかった。例えば中曽根は原子力政策を進めるなかで、原潜などの開発の余地も残しておいたと自身で振り返っている。けれども、これもまた大きくいえばエネルギーの確保というものであり、ただちに核兵器の開発・核武装というものにはつながらない。 実際に中曽根は上述の防衛庁長官としての渡米時、ジョンソン国務次官との会談において、米国の核の抑止力により「日本が核兵器を核とする必要性がない」と述べるなど、一貫して米国の核の傘の下での日本の非核武装を主張している。, 中曽根はアジアに目を向けたといわれている。確かに中曽根は首相就任後、初の外国訪問先に韓国を選び、40億ドルの借款を提供し、当時の韓国大統領である全斗煥との個人的な信頼関係も築くなどしている。中曽根は晩餐会の際、韓国語でスピーチをし、涙ぐむ韓国要人もいたそうだ。全は中曽根に日本語で「ナカソネさん、オレ、アンタニホレタヨ」といったという。 また中国を重視した外交も展開し、鄧小平から紹介された胡耀邦とよい関係を築いた。胡は中南海の自宅に中曽根夫妻と長男弘文夫妻を招き、会食した。テーブルには中曽根の好物である卵焼きと栗きんとんが並べられ、胡の夫人や子、孫も加わったという。, とはいえ、こうした中曽根外交は、戦後政治において特別異質で特殊なものとはいえないだろう。 そうというのも、中曽根の二代前の首相である大平正芳は環太平洋連帯構想を掲げ、大平の没後、その構想と取り組みはAPECとして結実するほどの先進的な外交を進めている。 それとともに、中曽根はアジア外交を重視しなければならない現実的要請があった。すなわち大平の次に首相を務めた鈴木善幸は外交を不得手としていた。そうしたこともあってか、鈴木は日米関係を悪化させかねない失言をし、外相が引責辞任するなど政権は外交面で不安を抱えていた。また歴史教科書問題が日中・日韓関係の火種となるなどしており、特に韓国とは借款の問題が外交上の懸案となっていた。 こうしたなかで鈴木の跡を継いだ中曽根が、対米外交はもちろん、対中・対韓などアジア外交を重視したのは当然といえば当然の成り行きである。 それとともに、中曽根の対中外交はソ連を封じ込めるという対ソ外交を念頭においたものでもあり、大きく見れば吉田茂・池田勇人以来の保守本流の外交方針を受け継ぐものであるということも忘れてはならない。 戦後の日本外交は大きく二つの外交方針に類型化されるといわれる。その一つが上述の日米中が連携し、中ソを離間させ、ソ連を封じ込めるという吉田茂以来の保守本流の外交であり、もう一つが日米中ソの協調、就中、米ソ両大国の接近とその潮流に日中が与することにより世界の安定を目指すという、鳩山以来の特に岸や福田赳夫など反吉田茂・保守傍流の外交といわれる。 こうしたなかで中曽根は保守本流の外交方針に近づいてみたり、時に反吉田の姿勢をとってみたりと揺れ動きながら、全体としては少しずつ保守本流の外交方針に近づき、対中関係を重んじるのであった。 ただし、繰り返すようだが、それは中曽根にとって反ソを主軸とするための対中外交であったことは忘れてはならない。中曽根は日記に次のように記している。, 中曽根は確かに内政より外交を重視し、大きな外交的成果をあげていくが、それは中曽根が際立って特殊で、これまでの自民党や政権にはまったくあり得なかった外交政策を打ち出したということではない。まして、中曽根は保守本流の外交方針を自らのものとしていくにあたり、例のごとくあっちへうろうろ、こっちへうろうろと右往左往しつつ態度を変遷させている。, 中曽根といえば国鉄分割・民営化など三公社民営化がよく知られている。中曽根は鈴木政権時に行政管理庁長官を務め、行財政改革に励んだ。中曽根は総理府に諮問機関として第二次臨時行政調査会を設置し、経団連会長の土光敏夫を調査会の会長に任命した。第二臨調や土光臨調などともいわれる。, このころの日本はオイルショックを国債発行で乗り切ったため、国債発行残高が積み上がっていた。そうしたなかで中曽根と臨調は「増税なき財政再建」をスローガンに掲げ、国鉄・電電公社・専売公社の民営化の方向性を打ち出し、中曽根政権において自らそれを実現していくのである。 また、こうした臨調を設置し有識者・国民の声を引き寄せ、そこでの結論を政治のリーダーシップで実行していくシステムは、首相となった中曽根が「大統領的首相」として多用していく審議会政治の先駆けでもあった。 中曽根の国鉄分割・民営化について、国労つぶし、ひいては総評つぶし、そして社会党つぶしという見方がある。中曽根自身も国鉄分割・民営化の意義としてそのようなことをいっており、そのこと自体は否定しない。ただ、たったそれだけの理由で中曽根が国鉄分割・民営化を行ったとは到底考えられない。 実際に国鉄は22兆円ともいわれる莫大な債務を抱え、毎年政府が支援のお金を都合しているような状況であり、国鉄改革・再建は必ずやらなければならないものであった。また国鉄改革には自民党の運輸族なども抵抗しており、中曽根にとって政治生命をかけてやらねばならないほどの課題であって、ただの「組合つぶし」といった軽いものではなかった。 中曽根は「国家的見地」からものを見て、族議員というものを乗り越えようとしていたといわれる。三公社民営化は、そうした中曽根の国家主義的な改革と見るべきではないだろうか。他方、中曽根は当時の国土庁長官であった金丸信が進めていた群馬県長野原町の八ッ場ダムの建設については、自身の選挙区である長野原町の住民が建設に反対していることから、ダム建設に待ったをかけており、そこには国家的見地はない。こうしたところも非常に中曽根らしい。, 以上、政治家としての中曽根の政策や思想、歩みについて、憲法や防衛、外交などにしぼって振り返ってみた。自民党内での派閥抗争といった権力関係、またプラザ合意など中曽根の経済政策なども深められればよかったのだが、いずれにせよこうしてみると「大勲位」「国士」「青年将校」などと呼ばれた中曽根だが、政策や思想を政局と権力関係のなかで変遷させていった、まさしく彼のもっとも有名なあだ名である「風見鶏」「変節漢」というのがふさわしい人物であることがわかる。 冒頭述べたように、中曽根の死後、あたかも中曽根が戦後保守のレディティマシーのような存在であり、保守思想の体現者で、良質な保守のように見なす評伝もどきを見かけたが、彼はそんな立派な政治家なのであろうか。その評伝では、特に中曽根がアジア主義者で新右翼、対米自立を戦略的に段階化して虎視眈々と狙う人物であり、国鉄分割・民営化も組合つぶしのためであって、けして新自由主義者ではない、すなわち中曽根は「保守」だというのである。 中曽根が戦後保守政界の大人物であることに異論はないが、とはいえ彼こそが戦後保守の代表格であり、もっともオーソドックスな保守政治家であるとはいえないことは、これまでの中曽根の歩みを振り返るなかで明白かと思う。 ちなみに、中曽根を保守だ何だと持ち上げているその評者は、他にも辺野古新基地建設を容認したり、沖縄戦は捨て石作戦ではなかったなどとする記事も執筆している。過去には韓国人差別の言説を弄しており、悪質かつ危険な人物である。このたびは自身が功成り名遂げるためには死者の亡骸に手を突っ込み、己のいいように腹話術をするなど、人間のすることではない。 「風見鶏」と言われた政治家の死。 どこまでも「風見鶏」であったと評価することが弔いなのではないだろうか。, ・服部龍二『中曽根康弘 「大統領的首相」の軌跡』(中公新書)・佐道明広『戦後日本の防衛と政治』(吉川弘文館、2003年)・増田弘『戦後日本首相の外交思想』(ミネルヴァ書房、2016年)・中島琢磨「戦後日本の『自主防衛』論─中曽根康弘の防衛論を中心として」(九州大学法政学会『法制研究』第71巻第4号)・井芹浩文「歴代首相の憲法観─せめぎ合う改憲派・護憲派・現実派─」(『崇城大学紀要』第39巻)・張軍平「日本の安全保障に関する中曽根康弘の主張と取り組み─与党議員から防衛庁長官になる直前にかけて─」(『広島法学』第42巻第4号)・李炯喆「中曽根康弘とアジア」(『長崎県立大学研究紀要』第16号)・成田千尋「沖縄返還と自衛隊」(『同時代史研究』第10号)・田中一昭「中曽根行革・橋本行革・小泉行革の体験的比較」(『年報行政研究』第41号), 「神苑の決意」毎月1日発行/葦津珍彦「神道ジャーナリズム」を継承/平和と独立を求める民衆の「決意」を伝える, 【最新号】「神苑の決意」第37号発行 令和の御大典と祖宗の制の精神問題─つつがなく執り行われた大嘗祭諸儀から考える─, 葦津珍彦「時の流れ」を読み解く(1)「時局展望」第1回「神器と大嘗祭の規定なき新しき皇室典範の成立」. 中曽根康弘元首相(1918〜2019)の「内閣・自由民主党合同葬儀」は10月17日に行われる。会場は都内の高級ホテル、グランドプリンスホテル新高輪だ。, この合同葬に関し、共同通信は10月14日、「文科省、国立大に弔意表明求める 故中曽根康弘氏の合同葬」の記事を配信した。, 《文部科学省が全国の国立大などに、弔旗の掲揚や黙とうをして弔意を表明するよう求める通知を出した》, スクープ記事のため、新聞他社やテレビ局が後追い記事を掲載。あっという間に世論が二分し、現在も賛成派と反対派で論争が続いているのはご存知の通りだ。, 共同通信の記事はYAHOO!ニュースにも転載され、トピックスに選ばれた。広範な読者を獲得し、同記事のコメント欄は10月16日現在、投稿数が6000件を超えている。これは相当な数だと言える。, このコメント欄に、大学ジャーナリストの石渡嶺司氏が専門家としてコメントした。要点は、以下の2点に要約できる。, 【1】1988年の三木武夫元首相[衆院・内閣合同葬]、95年の福田赳夫元首相[内閣・自民党合同葬]、2000年の小渕恵三元首相[同]でも国立大学などに弔意が求められた。今回の中曽根元首相のケースも前例に従っているだけと言える。, 【2】弔意を求めること自体も、国立大学は国の税金によって運営されている。元首相に弔意を示すというのは、そこまで不自然なこととは思えない。, 石橋氏のコメントに対し、10月15日現在、「参考になった」の数が1万4000件を超えた。これも極めて数が多い。, 後で紹介するが、石橋氏は新聞報道を調査し、過去にも弔意の表明を求めた事実を明らかにした。, ならば文部科学省に何か資料が残っているのではないだろうか。取材を依頼すると、担当者が「手元にある中では」10人の元首相について記録があるという。, 「10例のうち、弔意表明について閣議決定が行われ、国立大学に弔意表明の通知を出したのは3例ありました」(同・担当者), 「更に、弔意表明の閣議決定が行われたものの、『政府部内の弔意表明に限る』とされ、国立大学に弔意表明を求めなかったものが1例ありました」(同・担当者), なぜ「政府部内」に限ったのか、理由を記した記録はなかったという。文科省の担当者は「ご遺族のご意向、などの可能性が考えられます」と推測する。, 確かに傍証はある。在任期間が1年を超える首相経験者は大勲位菊花大綬章を受勲することが慣例となっているが、「本人の意向」という理由で、宮沢元首相の遺族は受勲を断っている。, 「残りの6例はメモだけが残されています。実際に国立大学に弔意を求めたかどうかは分かりませんが、閣議で弔意を表明すると決定した可能性は高いと考えられます」(同・担当者), 戦後の首相といえば、1人目はポツダム宣言受諾の3日後にあたる1945年8月17日に任命された東久邇宮稔彦王[後に東久邇稔彦]元首相(1887〜1990)だ。, 80年に臨時代理を務めた伊東正義元副総理(1913〜1994)は15人目で、現在の菅義偉首相(71)は35人目になる。, この35人のうち死去した元首相は23人。中曽根元首相を入れても11人しか文科省に記録が残っていないのはなぜなのか。, 東京新聞は10月1日の朝刊「こちら特報部」で、「中曽根元首相合同葬に違和感(上)」の記事を掲載した。, この記事の中で、中曽根元首相のように《内閣・自民党の合同葬》が行われた元首相として7人の名前が列挙されている。, 《合同葬は、1980年7月の大平正芳元首相が初。以降、岸信介(87年9月)、福田赳夫(95年9月)、小渕恵三(2000年6月)、鈴木善幸(04年8月)、橋本龍太郎(06年8月)、宮沢喜一(07年8月)の各氏も実施されている》, 文科省に文書が残っていた小渕、鈴木、橋本、宮沢の元首相4氏が含まれている。更に岸、福田の2氏も“詳細不明”のメモに名前があった。, 《サンフランシスコ講和条約締結時の首相だった吉田茂氏は、閣議決定により戦後唯一の国葬(1967年10月)となった。沖縄返還を果たした佐藤栄作氏は内閣、自民党、国民有志による合同葬(75年6月)だった》, 大学ジャーナリストの石渡嶺司氏が、三木元首相と福田元首相の死去でも、国立大学に弔意表明が求められたことを明らかにしたのは冒頭で紹介した通りだ。, 石渡氏は10月15日、YAHOO!ニュース個人で記事「元首相への弔意通達が思想統制につながる?〜元首相葬儀・大喪の過去事例を振り返る」を配信している。, この記事で、新聞記事のデータベースを活用し、事実を“発掘”したことを紹介している。そこで同じように編集部のデータベースを使うと、興味深いことが分かった。, 《1987年9月、岸信介元首相の内閣・自民党葬に際し、岐阜大では弔意を示す半旗の実施をめぐり大騒ぎになった》(出典:註1), 《全国の都道府県教委、国立大学など文部省関係機関に対して、故三木武夫元首相の衆院・内閣合同葬が行われる12月5日、弔旗の掲揚と黙とうなど弔意を表すよう求める通知を阿部充夫事務次官名で出した》(出典:註2), そして福田元首相に関しても、毎日新聞が1995年に「名古屋大学が弔旗掲揚を検討、職員組合が反発−−きょうの福田元首相内閣・自民党葬」という見出しの記事を報じている(出典:註3), メモに名前が記載された6人の元首相のうち、国葬が1人、国民葬が1人、そして新聞記事で弔意表明が確認されたのが3人となった。, こうしたことから推測すると、残る1人である大平元首相でも、弔意の表明が国立大学に求められた可能性があると言えるだろう。, 文科省の記録を調べてみると結局、中曽根元首相を含む10人について、国立大学に弔意を求めたと見る方が自然のようだ。, この10人に宮沢元首相と、伊東元首相代理を加えると12人。これを死去した元首相の合計数23人から引くと残りは11人となる。, では11人の名前が、なぜ文科省に残っていないのか。その新たな謎を解く鍵の1つとして、「国費の投入」がある。, 先に紹介した東京新聞の記事「中曽根元首相合同葬に違和感」によると、鳩山一郎(1883〜1959)、石橋湛山(1884〜1973)、池田勇人(1899〜1965)という3人の元首相は、内閣が関与しない「自民党葬」だったという。, 内閣との合同葬だからこそ国の予算が投入され、同じように国の予算で運営されている国立大学にも弔意の表明が求められる。, この理屈から考えると、「自民党葬」が行われた元首相の場合は、弔意の表明が求められなかった可能性がある。, また“不祥事”の記憶と結びついた首相も、内閣と自民党の合同葬は実施されなかったようだ。, ロッキード事件で有罪判決を受けた刑事被告人のまま死去した田中角栄元首相(1918〜1993)は、前出の東京新聞の記事によると《内閣が主催に入ると世論の反発を招くため、自民党・遺族の合同葬という形》だったという。, 他にリクルート事件で釈明に追われた竹下登元首相(1924〜2000)は、《生前に「葬儀は地元でささやかに」と希望していた》こともあり、《故郷の島根県掛合町(現雲南市)と自民党、遺族との合同葬》が営まれるにとどまった。, 神楽坂の芸者が「サンデー毎日」(毎日新聞出版)に愛人関係の経緯を告発したことなどから、短命内閣に終わった宇野宗佑元首相(1922〜1998)も、東京新聞によると《地元の滋賀県で自民党葬》だったという。, また特に自民党総裁ではなかった元首相の名前が、文部科学省の文書やメモに存在しないのも興味深い。, 幣原喜重郎元首相(1872〜1951)と芦田均元首相(1887〜1959)は古すぎるとしても、日本社会党の委員長だった片山哲元首相(1887〜1978)や、新政党や太陽党の党首を務め、民主党の最高顧問などを歴任した羽田孜元首相(1935〜2017)の名前はない。, もちろん、羽田元首相の名前が書かれた文書はかつて存在したが、保存期限を過ぎて破棄されていたり、文科省内の奥深くに潜んでいたりする可能性は否定できない。, とはいえ、かつて首相を務めても、その後に野党へ“転落”すると扱いは冷たい、という見方も浮かび上がってくる。, 念のために新聞記事を検索してみると、中日新聞が17年8月31日、「故羽田氏を首相見送り」という記事を掲載している。全文をご紹介する。, 《安倍晋三首相は30日午後、28日に死去した故羽田孜元首相のひつぎを乗せた車を、官邸前で見送った。首相は黒い数珠を手に2度、深く頭を下げ弔意を示した。車は東京・永田町の国会や官邸前の公道を通過。杉田和博官房副長官や官邸スタッフも見送りに加わった》, 国立大学に弔意を求めたことを、一部の有権者が《思想統制につながる》と反対している。このことに対して、石嶺氏は前出の記事で以下のように皮肉っている。, 《この弔意通達が思想統制につながる、ということであれば、この40年間、ずっと思想統制があった、ということなのでしょうか?》, 元首相の弔意表明に関する様々な違いは、どうやら“棺を蓋いて事定まる”という、古来、繰り返されてきた人間ドラマの一種と見たほうがいいのかもしれない。, 註1:「核心 国立大に『日の丸・君が代』圧力 予算握る国が実態調査」中日新聞2016年5月3日朝刊, 註2:「三木氏葬儀で弔旗掲揚を―文部省が通知」北海道新聞1988年11月30日朝刊, 註3:「名古屋大学が弔旗掲揚を検討、職員組合が反発――きょうの福田元首相内閣・自民党葬」毎日新聞1995年9月6日朝刊, 【田中角栄の殺し文句】相手を待たせた時にどう言うか――プライドをくすぐる「殺し文句」とは, 中曽根康弘元首相を偲ぶ 大韓航空機撃墜事件でソ連を追い詰めた「ジャパニーズ・テープ」, 「デイリー新潮」は「週刊新潮」と「新潮45」の記事を配信する総合ニュースサイトです。, デイリー新潮twitterアカウント / デイリー新潮facebookページ / 週刊新潮の記事一覧 / 新潮45の記事一覧 / デイリー新潮 人気記事ランキング.

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