ベルリン 東ドイツ

東ドイツ博物館(ベルリン)に行くならトリップアドバイザーで口コミ(6,089件)、写真(2,637枚)、地図をチェック!東ドイツ博物館はベルリンで96位(1,077件中)の観光名所です。 弊社サイトの現バージョンは、日本の日本語の利用者を対象としています。 別の国や地域にお住まいの場合は、ドロップダウンメニューから、国または地域別のサイトを選択してください。 詳細, このミッテ半日ウォーキングツアーで、ベルリンで最も重要な歴史的建造物や名所の多くを、ガイドからの解説を聞きながら観光できます。現代から冷戦、ナチス、帝国、プロイセンまでの、このドイツの都市のさまざまな時代の詳しい情報を得ることができます。この見所満載のガイド付きツアーのその他の観光スポットには、チェックポイントチャーリー、ホロコースト記念碑、再建された国会議事堂、ブランデンブルク門、ベルリンの壁などがあります。, 東ドイツ博物館の入場料は変動する場合があります。 現在、入場チケットは¥1,240です。人気のガイドツアーは1名様あたり¥2,656~です。, 東ドイツ博物館は混雑する可能性があります。予約を押さえるため、事前にEチケットの予約をおすすめします。 トリップアドバイザーでのご予約なら、ツアー開始日の24時間前までにキャンセルすると全額返金されます。, Karl-Liebknecht-Str. 東ドイツは東ベルリンの市民が西へ向かうことを圧し留めることはできませんでした。 1989年11月9日、ベルリンの壁を越えて東ベルリン市民が西ベルリンに大挙して向かいます。 当初、政府は「11月10 FCウニオン・ベルリン(ドイツ語: 1. »)を読了, ハヤカワ文庫「火星の人」を読了。おもしろい! », にししふぁくとりー HOMEへ戻る. このベルリンの壁は東西冷戦の象徴となった。1971年からは ホネカー が第一書記として指導したが、経済政策に失敗し、1989年にベルリンの壁が開放され、東欧革命の中で東ドイツ社会主義体制も崩壊した ドイツ・ベルリンで旧東ドイツの歴史に触れる観光スポット6選!DDRゆかりの地でアナタは何を考える? 投稿者:maporinn 更新日:2016.10.28 1 Direkt an der Spree, opposite of Berliner Dom, ベルリン ドイツ, ベルリン大聖堂前の川を隔てた真向かいにあります。旧東ドイツの生活を再現しています。生活の品々から、その時代に合った姿が見え、何の違和感もありません。豊かだったと言われる西の生活は、どの程度だったか知りたくなりました。, 旧東ドイツの生活などを紹介した博物館。広くはありませんが、工夫を凝らした展示方法で飽きることなく観ることができました。興味のあるなしで評価が分かれる場所かもしれません。, 旧東独時代の生活や、政治の状況が分かりやすく展示されていました。 他の方の口コミとは異なる意見になりますが、旧共産圏での人々の暮らしは厳しいながらもそれなりに暮らせてはいたようですが、一般市民は生鮮野菜が不足していて缶詰等が配給されていても、共産党のトップは高級外車を乗り回し、外国産の果物も口に出来たなど、本来格差がないはずの社会主義政治でここまで格差があったのか、と思わされました。 楽しい部分では、旧東ドイツのプラスチック製品やアパートはポップでおしゃれでした。ただし、アパートのバスルームは色々難があったようですが。, 東ドイツの生活や文化、ベルリンの壁の模型なども展示されています。 東ドイツでは物資が少なく、共産主義圏で独裁国家のイメージがありましたが、決して悪いことばかりではなく、そこには幸せな生活をしていた人達もたくさんいたこともわかったし、共産主義はうまく機能すれば良いこともたくさんあると思いました。 また、西ドイツとの比較として、オリンピックのメダル数も展示されていましたが、東ドイツのメダル数が圧倒的に多くて驚きました。, 昔の東ドイツの暮らしぶりなどがわかる博物館です。でも東も西もそれほど思い入れがないので、あまり感動などはありませんでした。もっと生活ぶりに差があるのかと思っていましたが、見た限りではそれほど変わらないように感じました。 規模も小さいので行かなくてもいいと思います。, 優先入場:DDR Museum-Culture、History、&Food of Former East Germanyチケット.

ベルリンの壁ってのは、東西ドイツの境界にあったんじゃないんですね!そもそも、ベルリン市自体が旧東ドイツ領内にある都市なんですね!恥ずかしながら知りませんでした。orz 東西ドイツとベルリン市の位置関係について、とても分かりやすい地図がNewsweekに載っていました。 西ベルリンは東ドイツの中にあって壁で守られていたので東ドイツ国民はベルリンに入ることが出来なかったのは理解できます。しかし、ベルリンを除く西ドイツと東ドイツは国境線も長く海も山もあるので脱出や移動が可能な気がしますが(壁

1. ベルリンは東ドイツ側にあるため、東ドイツに周囲を囲まれた西ドイツの飛び地という格好で西ベルリンが位置していた。やがて、自由を求める東ドイツ国民が西ベルリンへ渡り、飛行機などで西ドイツに亡命する者が増えた。 FC Union Berlin )は、ドイツの首都ベルリンを本拠地とするサッカークラブ。 ブンデスリーガに在籍するヘルタBSCと異なり、旧東ドイツ地区のクラブである。 東ドイツ時代は1部と2部を往復することが多く、カップ戦で1度の優勝、1度の準優勝を果たした。 人口は350万人、これはドイツで最大であることはもちろん、ヨーロッパではロンドンについで第2位。イギリスがEUを離脱するとEUで最大の都市になります。, 旧ドイツ帝国、そしてナチス=ドイツの首都だったベルリンは2度の戦禍に見舞われ、その後の東西冷戦時代はそれを象徴する都市でした。ベルリンを東西に引き裂く「壁」が建設され、西ベルリンは「赤い海に浮かぶ自由の島」とも言われました。ベルリンはまさに、「冷戦の最前線」だったのです。, ある説によれば、西スラブ人が現在のベルリン一帯に住み着いたときに彼らの言葉で「湿地」を意味する“berl(birl)”という言葉がもとになったと言われています。ベルリンは、フランスからロシアまでつながる「北ヨーロッパ平野」のうち、土地の低い湿地帯にあるため、この一帯をこう呼んだのかもしれません。もうひとつはドイツ語で「熊」を意味する“Bär”に結びつくとされるもので、根拠はないとされる一方で、今日のベルリンの紋章には熊が描かれています。, 位置的にはドイツの東部、お隣のポーランドとの国境からは60㎞しか離れていません。地名にもあらわされている通り、平坦な低い土地で周囲を森林に囲まれています。ベルリンからポーランドのワルシャワの間は最終氷期に形成された谷となっており、シュプレー川がそこを流れています。今のベルリンはこのシュプレー川の流域両岸に都市が広がっています。, ベルリン郊外に目を向けると森林と湖が多いのが特徴です。ベルリンを流れるもうひとつの川、ハーフェル川の流れに沿って湖が点在しています。, 夏は温暖で湿気があり、冬は寒冷な「西岸海洋性気候」に属し、降水量は年間を通じて平均しています。冬は雪が降るときもありますが、積もった状態が長く続くことはありません。, とはいえ、ドイツの中心都市がベルリンであることに変わりはありません。サービス産業を中心に経済も発達しており、交通の要衝でもあり、観光都市でもあります。有名な大学や博物館もありますから学術都市の顔も持っています。政治・文化・科学などの様々な分野でドイツ国内のみならず、世界的にも進んだ世界都市なのです。, ドイツは「連邦制」の国でいくつかの「連邦州」に分かれていますが、ベルリンは「ベルリン市」としてひとつの「連邦州」とされています。つまりベルリンは一般の都市以上に行政の権限が認められているということです。ドイツ国内にはベルリンのほかにあとふたつ、ハンブルクとブレーメンが連邦州とされています。, 紀元前3000年頃になると農耕や家畜飼育の痕跡も現れ、土器や備蓄のための倉庫などをつくるなど、この地域で農耕文化が定着し始めました。, 紀元前6世紀ころにはこの地域に「ゲルマン民族」が定住していたようです。タキトゥスの「ゲルマニア」に登場する“スエビ族”の一部と考えられる“ブルグンド族”などの名前がこの土地に定住した部族として勢力を拡大していました。, 紀元4世紀以降ゲルマン民族の大移動が始まり、ハーフェル川やシュプレー川周辺からゲルマン系の部族は離れて行きます。これに乗じてスラブ人が流入、720年頃のベルリン周辺はスラブ人の住む土地となっていました。, “ゲルマン人”、すなわちドイツ人の“ベルリン”奪還は1157年、アルプレヒト1世がスラブ人を撃退し「ブランデンブルク辺境伯」となる時まで待たなくてはなりませんでした。アルプレヒト1世はドイツ人が現在の東部ドイツを含む地域に進出する足掛かりをつくった一人です。スラブ人の土地となっていたベルリンを含むブランデンブルク辺境伯領を神聖ローマ帝国の一部としました。, アルプレヒト1世は別名を「アルプレヒト熊公」といいます。なぜ「熊公」なのか、実ははっきりした説明は残されていません。もしかすると、これはあくまで筆者の想像ですが、ベルリンの地名の由来のうちのひとつ、“Bär(熊)”に関係があるのかもしれませんね…。, 12世紀の終わりころから13世紀にかけて、現在のベルリンを構成する地域の名前が古文書などに現れるようになります。「シュパンダウ」、「ケーペニック」といったスラブ人が多く居住する地域に続いて、「ケルン」、「ベルリン」といった地域が文書に登場し始めます。「ベルリン(アルト=ベルリン、古ベルリン)」はテルトウ台地とバルニム台地に挟まれた沼地でシュプレー川右岸の浅瀬に沿って建設されました。また「ケルン」はシュプレー川の中州に形成された地域です。, 考古学的な調査でもこれらの地域へのドイツ人の入植がはじまったのは12世紀末以降であることがわかっています。発見された木材を年輪によってどの時代のものか判別する「年輪年代学」による研究が進んだ結果、ケルン地域やアルト=ベルリン地域でその時代のものと思われる木材が見つかっています。, 当時の両家の境界線はちょうど現在のベルリンを東西に分ける位置にひかれ、緊張関係が続いていました。1239年から1245年の間、両家は戦闘状態に入り、戦いに勝利したアスカニア家がテルトウ台地とバルニム台地(一部を除く)を確保、これによって現在のベルリンの市域が形成されるのです。, ベルリンにハンザ都市などのような「都市特権」が認められたのは1232年、現在はベルリン市域の一部となっているシュパンダウに認められたのが最初。その後、1307年にはアルト=ベルリンとケルンが統合され、シュパンダウなどの地域に対して経済的に発展してゆきます。, こうして、現在のベルリンを構成する諸地域はアスカニア家の統治のもとで14世紀初頭にかけて発展して行きました。しかし、1320年にアスカニア家は後継者がなく断絶してしまいます。, その後もブランデンブルク辺境伯領の統治者は度々変わります。その背景のひとつとして神聖ローマ帝国(ドイツ)の皇帝の立場をめぐる争いがあります。当時の神聖ローマ皇帝は有力諸侯の選挙によってえらばれていました。選挙に参加する諸侯はその領地で決まっており、「ブランデンブルク辺境伯」は選挙に参加できる「選帝侯」の地位だったのです。, ルクセンブルク家の皇帝カール4世は「金印勅書」と呼ばれる皇帝選挙に関する法律を定めた上で選帝侯を4人とします。その中で巧妙にライバルを除外しつつ、ヴィッテルスバッハ家からブランデンブルクを買収し、彼の息子、ヴェンツェルに与えたのです。その後同じカール4世の子、ジギスムントがブランデンブルクを治めることになりましたが、この頃にベルリンでは大火災が起こって市庁舎や教会などの建物に壊滅的な被害がありました。, 神聖ローマ皇帝となったジギスムントは1415年にブランデンブルクをニュルンベルク城伯フリードリヒ6世に与えます。このニュルンベルク城伯こそ、後にベルリンを中心にドイツ統一を果たす「ホーエンツォレルン家」出身の人物なのです。, こうしてベルリンの都市としての「自由な空気」は次第に失われてゆきます。17世紀に入るころには人口は増加して12,000人ほどまで急速に膨らみましたが、その一方で「貧困」も増えたのです。さらに問題となったのは「ユダヤ人」。ハンザなどの都市には多くのユダヤ人が暮らしていてその土地に定着し、商業などを営んでいました。ベルリンも同様でユダヤ人は数多く暮らしていたのですが、「聖体を盗んだ」という、いわれもないような罪を着せられて多くが追放され、斬首されたり、焼き殺されたりしたのです。その後、追放されたユダヤ人は30年を経て一度はベルリンに戻ることを許されましたが、再度追放されてその後100年、戻ることは許されませんでした。, ベルリンは宗教改革を受け入れ、推し進めた都市。ブランデンブルク選帝侯ヨアヒム2世は教会が持っていた世俗的な領地を差し押さえます。そこで得られた資金は公共事業に使われました。ただしその事業は自分の狩猟場の宮殿とベルリンの宮殿とを結ぶ道路を建設するというものでしたが…。, 話がそれますが、この時代にちょっと奇妙な「戦争」が起こっています。戦ったのはベルリンとシュパンダウ。1567年、もともと摸擬戦だったはずのものが、負ける役を与えられたシュパンダウの方が不満で「負け」を拒否、本当の戦闘になってしまったというもの。3日間続いた戦闘の結果はベルリン側の大勝利だったとのことです。, そんなベルリンの人口が半減するような被害を受ける戦争の足音がすでに聞こえ始めていました。各国の宗教対立と利害の対立が絡み合い、ヨーロッパの多くの国々が巻き込まれた「三十年戦争」です。, 一方でこの時代はベルリンに新たな息吹を吹き込むことにもなります。1640年、“大選帝侯”フリードリッヒ=ヴィルヘルムは宗教寛容策と移民の受け入れを打ち出します。ベルリンの市域を拡張し、“フリードリッヒヴェルダー”や“フリードリッヒシュタット”といった周辺地区を築いていきました。, さらにフリードリッヒ=ヴィルヘルムは「ポツダム勅令」を発布し、フランスのカルヴァン派の新教徒「ユグノー」の移住を受け入れます。この後、たくさんのフランス人がベルリンで暮らすようになり17世紀末には市の人口の20%ほどに増えて行きました。このフランス人たちが後のベルリンの文化に大きな影響を与えるようになるのです。また、彼はユダヤ人も受け入れました。ユダヤ人はこの頃、カトリックの地域で迫害され、追放されることが多かったのです。オーストリアを追放されたユダヤ人50人がベルリンで暮らすこととなりました。, 他にもボヘミアやポーランド、ザルツブルクなど君主がカトリックを擁護する国や地域からベルリンに移民が集まるようになったのです。, 1701年、ブランデンブルク選帝侯・フリードリッヒ3世が神聖ローマ皇帝から「プロイセン王」として認められると、フリードリッヒ1世としてそれまでバラバラだったホーエンツォレルン家の所領をまとめて支配するようになります。シャルロッテンブルク宮殿を造営し、ベルリン王宮を拡張するなどベルリンを王都として整備しました。, さらにそれまではそれぞれが独立した区域であるベルリン・ケルン・フリードリッヒスヴェルダー・ドロテーエンシュタット・フリードリッヒシュタットを統合して「王都ベルリン」とします。実はこの時までベルリンは小さな都市でしかありませんでした。現在ベルリンの一部となっているそれぞれの地域は別々の都市でした。ですから先ほどのような摸擬戦が実戦になってしまうような事件も起こったのです。城門の周囲には新たに郊外地域の開発も進められます。ようやく現在の「大ベルリン」が生まれつつありました。人口も18世紀初頭には55,000人だったものが中頃には10万人を突破します。時は「兵隊王」と渾名されたフリードリッヒ=ヴィルヘルム1世の時代、ベルリンの兵士の数は5,000人から2万6千人に増えていました…。, フリードリッヒ2世は在位中に2度にわたってオーストリアと争い勝利するなど、軍事的才能と国家経営に優れた力を発揮した国王である一方、「啓蒙専制君主」の典型とされ、芸術や文化にも造詣の深い人物でした。これは母親の影響が非常に大きなものでした。自らフルートの演奏をしたと言われます。一時的とはいえ、フランスの哲学者・ヴォルテールとも親交を結び、「哲人王」とも称されました。, 父・フリードリッヒ=ヴィルヘルム1世は「兵隊王」と呼ばれた人物。息子が芸術などに夢中になることを快く思うはずはありません。それでも母の血を受け継いだ芸術家気質は如何ともしがたく、幼いフリードリッヒ2世は父親から虐待にも似た仕打ちを受けていました。, そんなフリードリヒ2世が父のもとから逃亡するという事件が起きます。ほどなく彼は連れ戻されますが、フリードリヒ2世は幽閉され、逃亡を手引きしたとされた近衛騎兵隊少尉が捕らえられ、彼の目の前で処刑されました。, こういった事件があったからでしょうか?フリードリッヒ2世はベルリンの王宮よりはポツダムに造営された宮殿・サンスーシに好んで滞在することが多くなりました。兵士に上下の隔てなく接し、人気も高く「大王」と呼ばれたフリードリッヒ2世にとってベルリンは、若き日の辛い思い出が詰まった街だったのかもしれません…。, この門の前でパレードを行い、ベルリンに再び自由な空気を送り込んだフランス人が登場します。それは「フランス皇帝ナポレオン1世」。1806年にベルリンはナポレオンに占領されました。, フランス占領下のベルリンは民主化がもたらされ、自治権も獲得。1809年には制限選挙ではありましたが初の議会選挙が行われます。ベルリン大学(後のベルリン・フンボルト大学)の創設や、初の日刊紙の登場など、停滞気味だった改革が進められて行きました。また、ユダヤ人がベルリンに居住することも許されます。, しかし、こうした民主的な流れは長くは続きませんでした。ナポレオンの敗北によりベルリンは再び市民が抑圧される時代に戻されるのです。, 同じく19世紀、ヨーロッパは「革命の時代」でした。特に1848年2月フランスで起こった「2月革命」の影響は非常に大きく、翌3月にはベルリンで市民と軍隊の大規模な衝突(バリケード蜂起)が発生します。これはほどなく鎮圧されますが、その際に国王・フリードリッヒ=ヴィルヘルム4世が行った約束を守らなかったために、6月に再び市民がベルリンの兵器庫を襲撃、これを契機としてベルリンの自治はさらに制限され、選挙もさらに参加の要件となる納税額を引き上げられるなど、反動的な政策が実施されました。, 他方で、この自由主義の運動はこの後のドイツ統一の道筋をつけることとなります。フランクフルト国民議会でプロイセンを中心とする「小ドイツ主義」でのドイツ統一が示されたのです。この時はフリードリッヒ=ヴィルヘルム4世がドイツ皇帝となることを拒絶したため、この試みは失敗しました。しかし、跡を継いだ弟のヴィルヘルム1世の時代、ベルリンはいよいよ「プロイセン王国の王都」から「ドイツ帝国の帝都」になる時がやってくるのです。, 鉄血宰相と言われるビスマルクの下で、普墺戦争でオーストリアを破りドイツ統一の路線から脱落させ、さらに普仏戦争でフランスの干渉を排除したプロイセン王国が中心となって「ドイツ帝国」が誕生します。ベルリンはついに「帝都」となりました。, この頃のベルリンの急速な発展、特に急激な人口増加は都市のインフラに様々な問題を引き起こしていました。ベルリンの人口は80万人を超え、それまでの施設・設備では追いつかない状況になったのです。鉄道網や上下水道などが急ぎ整備されていきます。途中、不況がベルリンを襲いますが、その間も都市開発は進められました。19世紀末には地下鉄も登場、近郊を結ぶ鉄道と合わせて拡大する市域の輸送に対応を図ります。低所得者用の集合住宅、中産階級向け住宅地、高級住宅街などが次々に整備され、ベルリンは帝都にふさわしい近代都市となって行きました。, 終戦と同時に時の皇帝ヴィルヘルム2世が退位、ドイツ帝国は崩壊します。代わってヴァイマル共和国が成立、ベルリンは共和国の首都となりました。, 20世紀に入ってもなお発展を続けるベルリンは、さらなるインフラ整備を迫られます。第一次大戦前にインフラ政策の調整のために設置された「大ベルリン広域連合」は1920年に「大ベルリン」の設置として実を結びます。ベルリンは、かつて摸擬戦が本当の戦争になってしまったあのシュパンダウを含む7つの市、59の村、そして27の区域を統合してほぼ現在の姿となりました。人口は統合前の190万人にさらに190万人を加え、380万人を越えます。これは当時、ロンドン、ニューヨークに次ぐ世界第3位の人口です。さらにベルリンはひとつの行政管区として“州”に近い権限を与えられ(実際は1881年からこの地域を含むブランデンブルク州から独立的な地域でしたが)、これが現在まで続いています。, 敗戦国ドイツには莫大な賠償金の支払いが求められます。政府はこれに対して大量の貨幣を発行することで対応しましたが、そこにさらに追い打ちをかけるようにハイパーインフレーションが起こり市民を苦しめました。それでもアメリカなどの支援により立ち直りの気配を見せた時期もあります。1920年代中盤から終りにかけて、ベルリンは経済的にも最高潮の時期を迎え、文化の面でも物理学者のアインシュタインや、俳優のマレーネ・ディートリッヒが活躍するなど、ヨーロッパにおける文化の中心のひとつでした。インフラの整備も進み、国際空港としてテンペルホーフ空港が開港、市内を結ぶ鉄道の電化が進むなど、この時期のベルリンはある意味で「黄金期」を迎えたのです。, しかし、この黄金期は長くは続きませんでした。立ち直りかけた経済が1929年の「世界恐慌」により再び危機に瀕します。そしてそれはこの後のベルリンの歴史に暗い影を落とすことになるのです。, ドイツ共産党は1918年12月にベルリンで誕生しました。翌年の1月に「スパルタクス団の蜂起」としてロシア革命を再現しようと暴動を起こします。しかしこの蜂起は失敗、首謀者とされるローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトは捕らえられて処刑されました。失敗はしましたが、ベルリンはこの後もドイツにおける社会主義・共産主義の牙城となります。, 右派勢力の実力行使は政治家であったヴォルフガング・カップによる「カップ一揆」に象徴されます。武力による政権転覆を試みましたが、準備不足の上に左派勢力による労働者のゼネストにも阻まれて失敗しました。, 共和国外相・ラーテナウが極右勢力に暗殺される事件が起こります。ラーテナウは当時誕生したばかりのソヴィエト連邦との国交を開くことに尽力しましたが、これに不満を持った極右勢力によって殺されたのです。その葬儀に50万人のベルリン市民が参列しました。ラーテナウは左派ではなかったのですが、右派の台頭に市民はショックを覚えたのです。ベルリンは左派の中心であってナチズムの中心ではありませんでした。しかし、後の歴史はベルリンをナチスドイツの盛衰を象徴する街にしてしまうのです。, ヒトラーは、ベルリンを「世界の首都」としてそれにふさわしい姿に改造しようとしていました(「世界首都ゲルマニア計画」)。実のところ当時のベルリンは人口などの面では世界的な大都市でしたが、建築物は地方的で見劣りのするものでした。戦争に勝利した後に、ロンドンやパリに見劣りのしない「世界首都」とするという計画でしたが、一部の建物を除いてその計画のほとんどは未完成のままとなっています。, 一方、1936年に開催された「ベルリンオリンピック」はナチスのプロパガンダに利用されました。1937年の「ベルリン700周年」の祝賀行事でさえ、ナチスは自らのプロパガンダに利用したのです。こうしたナチスの煽動による熱狂はベルリンを次第にナチスドイツの首都として完成させていきます。, 1938年11月9日夜半に起こった「水晶の夜事件」はこうしたユダヤ人迫害の象徴的な事件のひとつです。ベルリンでも12あったシナゴーグ(ユダヤ教の教会)のうち9つが焼き払われ、ユダヤ系の商店や家が破壊、多くのユダヤ人が拘束されました。, ベルリンに暮らすユダヤ人は鉄道でリッツマンシュタットにあるゲットーに送られます。さらにはベルリン西部のヴァン湖畔で開かれた会議で「ホロコースト」の実施が決められ、この後多くのユダヤ人が殺害されることになりました。ベルリンにも強制収容所がつくられ、そこでユダヤ人は強制労働に従事させられ、そして多くのユダヤ人が殺害されました。, さらに1941年に始まっていたソ連との戦争(独ソ戦)も劣勢に立たされ、ソ連軍がベルリンに迫ってきます。総統・ヒトラーの誕生日である1945年4月20日、ソ連軍はベルリンに対して砲撃を開始するとともにベルリンを包囲。翌21日には市街戦が始まります。侵攻したソ連軍は市街を徹底的に破壊し、ヒトラーは4月30日に総統官邸の地下で自殺。5月2日にベルリンの防衛軍が降伏してベルリンは陥落しました。, 戦いが終わった後のベルリンは60万戸の住宅が全壊、市街地のうち28.5㎢が廃墟と化してしまいました。百貨店も2軒に1軒が崩壊、そこには世界首都の姿はおろか、戦前の姿さえありません。人口も戦争が始まったころに比べると100万人が失われていたのです。, 1945年夏、それまでベルリン全域に駐留を続けていたソ連軍は他の3か国の占領地区から撤兵、4か国による分割統治が始まりました。しかしすでに始まっていた東西の政治的対立はベルリンをその象徴的存在として激しさを増して行きます。共産主義の封じ込みを狙うアメリカとそれに同調する(せざるを得ない)イギリス・フランス、そして西側の一方的な通貨改革や復興プランに反発するソ連という構図は、米英仏の管理する西ベルリンの「封鎖」という事態に発展します。これに対して西側は物資を空輸する「空の架け橋作戦」で対抗、失敗を認めたソ連は封鎖を解除します。, 一方でソ連の管理下にある東ベルリンでは1953年6月に暴動が発生します。発端は建設労働者のストライキでした。当初300人程度だったストライキ参加者がデモ活動を行うと4万人に膨れ上がり、事態を収拾するために東ドイツ政府がソ連軍の介入を許したことから暴動となり、ソ連軍に鎮圧されます。, このような東西対立を象徴するような出来事が、この後もベルリンでは続いて行くのです。, それを象徴するのが「ベルリンの壁」の建設。東西に分割されたベルリンのうち西ベルリンは「自由世界へのショーウィンドウ」でした。“東側世界よりも豊かな西側の暮らし”を目にするにつれ、東ベルリンの市民は西へと脱出を図るようになります。先のベルリン暴動での東ドイツ、さらにソ連の態度も社会主義体制への疑問と不満を高める結果となっていました。市民の流出を抑えきれなくなった東ドイツは1961年8月12日、東西ベルリンの境界の通行をすべて遮断、西ベルリンを有刺鉄線で囲んだのです。有刺鉄線は後にコンクリートの「壁」となります。「ベルリンの壁」はまさしく、東西冷戦の「象徴」でした。, ベルリンに壁が造られたことで、第二次世界大戦が終わってから度々、一触即発の状況となっていたドイツをめぐる東西の対立は安定化の時代に向かいます。ソ連は壁の建設を認めることで西側との直接対決を回避し、社会主義世界を現状維持しました。一方のアメリカも壁が建設されるのを黙認することで西ベルリンの存在を守り、東側との武力衝突の危険性を避けたのです。, 東ベルリンおよび東ドイツの経済状況は良くなることはありませんでしたが、政府は西側の情報を遮断し、社会主義国家を守ることに躍起になります。どの社会主義国家もそうでしたが、ソ連という後ろ盾に頼ることでようやく体制を維持していたのでした。, しかし、そのソ連に新たな指導者、ミハイル・ゴルバチョフが登場、「ペレストロイカ」と呼ばれる改革政策を始めると状況は一変します。東ヨーロッパの社会主義国が次々と民主化され、その流れは「東欧革命」と呼ばれました。, その中にあっても東ドイツは民主化を始めることなく、むしろさらに統制を強化していきます。すると東ドイツの国民はすでに民主化の進んだハンガリーやチェコスロバキア経由で西ドイツへ出国しようとしたのです。それをさらに締め付けようとする東ドイツ政府のやり方に、ゴルバチョフのソ連はもはや後押しをしてはくれませんでした。東ドイツは東ベルリンの市民が西へ向かうことを圧し留めることはできませんでした。1989年11月9日、ベルリンの壁を越えて東ベルリン市民が西ベルリンに大挙して向かいます。当初、政府は「11月10日以降の出国制限の緩和」として考えていたのですが、記者会見での発表で「直ちに出国可能である」と聞いた市民が検問所に詰めかけ、検問所の警備隊はそれを抑えきれず検問所を解放してしまいます。なかばイレギュラー的に事態が進み、長く東西を隔てていた「壁」は崩壊。“冷戦の象徴”だったベルリンの壁は“冷戦の終り”をつげる「象徴」となったのです。, ベルリンの壁の崩壊から1年を待たずして、1990年10月に東西ドイツは再統一、ベルリンも再びひとつになります。翌年には統一ドイツの首都となり、ドイツの政治の中心地としての確固たる立場を固めました。, 韓国釜山2泊3日のモデルコース。韓国リピーターがおすすめする定番から最新スポットまで, 現在は統一ドイツの首都ですが、ドイツ国内でのベルリンは「立法・行政の中心」という立ち位置です。, すべてのゲルマン系の人々がベルリン周辺から離れていったわけではもちろんありません。, 13世紀以降、アルプレヒト1世の子孫・アスカニア家によるこの地域への入植と開発が盛んになったのには理由がありました。, アスカニア家の断絶後、ベルリンを含むブランデンブルク辺境伯領は時の神聖ローマ皇帝・ルードヴィッヒ4世により息子に与えられ、ヴィッテルスバッハ家が統治することになりました。, 帝国内の諸侯の主導権争いの結果としてブランデンブルク選帝侯となり、ベルリンのあるじとなったホーエンツォレルン家に対してベルリンの市民はあまり「歓迎ムード」ではなかったようです。, ベルリンが変容しつつあった16世紀、ドイツのみならずヨーロッパ全土を包み込むような変化が起こります。, 「三十年戦争」は元々、「カトリック対プロテスタント」といったキリスト教の新旧対立が発端ですが、そこにドイツの各諸侯、ヨーロッパ各国の王家の利害が複雑に絡み合った結果、30年という長期間にわたって断続的に戦闘が行われることとなりました。, フリードリッヒ2世の治世はベルリンが自由な空気に包まれ、啓蒙思想の中心地となりました。, ヴィルヘルム1世がプロイセン国王となると、市民は自由化を期待し、国王も自由主義的な大臣を起用しました。, このようにヴァイマル共和国の首都として発展を続けるベルリンでしたが、その一方で第一次大戦での敗戦の影響はこの街にも影を落とし続けていました。, ドイツ、そしてベルリンが敗戦後の経済的混乱を乗り越え、黄金期を迎えていた間にも、この後に訪れる暗い時代の足音は聞こえ続けていました。, 第二次世界大戦が開戦しても、はじめのうちはベルリンが直接的な被害を受けることはありませんでした。, 「壁」が鉄条網などで遮られた簡単なものであった当初は、「壁」を越えて西側に逃れる人々が後を絶ちませんでした。, 11月9日に解放された直後の10日未明、市民は金槌やつるはし、果ては重機など、思い思いの道具で壁を崩し始めます。.

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